僕は勉強が嫌いなのかも知れない

僕は常々自分のことを「目的と手段が倒錯した人間」だと評価していた。何かを作るためにコンピュータを学ぶべきであるはずが、その学ぶ行動自体が楽しいと思う人間であった。何かを作るためにOSの機能を調べ始めたはずが、いつの間にかOSの仕組みを延々と調べ気づけばCPUの仕組みまでレイヤが下がっている。そしてもともと何をやろうとしていたのか思い出せなくなる。

「学ぶことが好き」というのは多くの場合肯定的な文脈で語られる。大抵の人間は学ぶ事を忌避するからだ。 しかし、僕はこの倒錯をよく思っていなかった。「学ぶことが好き」というのは自分自身の興味の強さに依存している。学ぶにつれて目新しさは失われ興味の強さは薄れていき、相対的にその分野の魅力は低減していく。やればやるほど魅力が低減していくというのはある種の絶望があった。 ともかく、「学ぶことが好き」な僕は驚異的に飽き性だった。ほとんどの趣味は半年ほど齧っては飽きるを繰り返していた。

コンピュータに出会ったのは高校に入ってすぐの頃だった。暇を持て余していた*1僕は「パソコン持ってたらエロゲ貸してやるよ」というなんとも男子校らしい誘い文句に釣られてパソコンを買ったのだった。当時その友人に「デスクトップパソコンとノートパソコンってよく聞くけどなにが違うの?」と聞くくらいに僕はコンピュータは門外漢だった。

コンピュータという新しいおもちゃを手に入れた僕は直ぐにそれにハマった。そして当時から飽き性を自覚していた僕は「もしこの趣味が1年続いたらそれを仕事にしよう」と決めていた。果たして1年後、僕はまだコンピュータにハマっていた。授業中にコンピュータを触っていて怒られたり逆アセンブラを紙に印刷して読んだりして遊んでいた。

当時の僕はコンピュータに飽きなかった理由を「分野があまりに多岐に渡っているため」だと分析していた。コンパイラの仕組みを調べるのに飽きたらOSのメモリ管理を調べればいいし、ファイルシステムを深く追っても良い。その広がりが飽きない理由だと思っていた。 たまに「飽きて」は別分野をやるといった事を繰り返していた。

しかし大学3年以降、コンピュータ自体に対する興味が薄れているのを感じた。コンピュータの勉強時間が減り他分野を勉強して遊んでいた*2

就職するときこれは大きな恐怖だった。「コンピュータに飽きるかもしれない」のに僕は他の進路を選ぶには長い時間をコンピュータに捧げすぎた。他のスキルセットは特になく、また性分にも合わないだろうと特に他の選択肢は考えずにIT系の社に入った。学生時代は新しい分野をやりたくなったらカジュアルに乗り換えることが出来たが、就職してからはそうはいかないだろう。飽きた分野をやることは苦痛でしかなく、なにかの拍子に自分のコンピュータに対する興味が尽きたとき、僕はどうすることも出来ない。

入社して5ヶ月経った。自分を客観視する機会があったため、久しぶりにこの恐怖に向き合った。

その結果、実は僕は勉強がずっと嫌いだったのかもしれないと気付いた。逆説的ではあるが、これは「勉強が好き」よりもずっと僕にとって救いだった。好きでやっていた事は嫌いになると苦痛かもしれないが、もともと嫌いだったなら大丈夫だろう。 コンピュータの勉強は何も舗装路だけではなく、歴史的経緯により洗練されていない箇所があったり考古学を強いられたりと煩雑でお世辞にも面白いとは言えない時も多い。

思い返せば僕がコンピュータをやっていて一番楽しいのはコンピュータを触っていないときであるようだった。必要な知識を頭の中にすべて入れたとき、思考するのにコンピュータは要らない。ぼくのかんがえたさいきょうのXXXを散歩しながら考えられる。 僕はそのために勉強しているらしかった。不要とも言えるまでに知識を持つことでコンピュータと向かい合わずとも仮定を棄却し遊ぶ事ができる。

これは思考自体に面白さを見出しており、興味の強さに依存しているわけでは無い。どうやらしばらくはコンピュータで仕事が出来そうだ。

今日も僕は勉強が嫌いだと自覚しながらシグナルハンドラの仕組みを調べる。未来の僕が遊ぶために。

*1:中高一貫の中学を辞めて別の高校に入学したため全ての授業が1年前にやったことだった。あまりに暇すぎてとなりの席の人間がやっていたからという理由だけでスケボーをやるくらいだった。

*2:おかげで釣りや解剖学や車の仕組みに詳しくなったりした。